中西進さんの「ひらがなでよめばわかる 日本語のふしぎ」という本。
これはめっぽうおもしろい。 書架をながめていると、この本が目に飛び込んできた。装丁もすてきだったので手に取った。と思うのだが、ひょっとすると違うかもしれない。
物語を書こうというとき、たとえば主人公の名を考えるとき、そのとき思いついたものをひょいっと付けていた。けれども、そうしながら、なんでこの名前にしたんだっけ、とか、自分で名付けておきながら疑り、自分自身を空々しく感じることがよくあって、それで落ち込むことすらあって、深層の部分では、もっと言葉の持つ意味とか、文字の持つ意味を知りたいと思っていたのかもしれない。
漢字は中国から来た言葉だけれど、ひらがなは日本独自である。
そして、古代日本人は、とても豊かな心で、周囲や自分のもつ器官に名をつけていたという。
たとえば、め、はな、みみなど顔のパーツは、なぜそう呼ぶのか。
それは、古代日本人が植物の器官、その器官の本質を熟知しており、顔のパーツにそれらの意味をあてて呼んだことと関係しているという。
め=目は芽、みみ=耳は実、はな=鼻は花。
科学や医学など今日ほど発達していないはずなのに、古来の人が顔にあるパーツと、それらの果たす役割、本質をずばり知り当てていて、植物のその器官と同じ名を付けた、というのがこの本の一番最初の項なのだけれど、この部分でわたしはすっかり引き込まれてしまった。
ずんずん読み進めると、「かがやく」という言葉の意味が出てきた。 わたしは真輝子という名である。でも「輝」という字のこのキラキラした様子、光が充ち溢れる感じは、どうも現実の自分とはかけ離れている気もしていた。
けれども、少しちがうのだ。
「かがやく」という字は、わたしが勝手に持っていたイメージ、光溢れる、煌々とした様子、ではなくて、本来は光の明滅を意味するらしい。
まぶしいくらいに光る様子は「照(てる)」なのである。
「てる」が明るい状態を維持しつづける意味であるのに対して、「かがやく」は、暗くなったり、明るくなったりしながら、光がキラキラ変化すること、それが「かがやく」なのだ。
これを知って、わたしはなんだかようやく、「輝」という字、「かがやく」という言葉の意味に少し親近感を持てたように思う。 光ったり陰ったり、そういう毎日なり日々なり人生であっても、それこそが「かがやく」という意味なのならば、ほんの少し、今までより胸を張っていられるような気がする。
ちなみに「さいわい」という字。幸田という字には「さいわい」が入っている。 「さいわい」の古語は、「さきはひ」であったという。「さき」+「はひ」に分かれるという。
さきの元は「さく」、花が咲くのあの「さく」である。
「はひ」は、もともと「延ふ(はふ)」で、ものごとが長くつづく様子を意味したという。
今日の言葉でも残っている「気配=けはい」は古い読みでは「けはひ」。
「け」はぼんやりとただようもので、「はひ」長くつづく様子。ぼんやりした何か不明のものがふわり漂っている様子=けはひになっているとはおもしろい。
そう、それで「さきはひ」というのは、つまり、「花が咲きあふれているような様子が長く続く様子」それが「さきはひ」、今日の「さいわい」の意味だという。
中西さんの文のくくりはおもしろくて、今の日本では幸福とは抽象的な、満たされたイメージだけれども、古来の日本人はずっと具体的で、「花が心のなかにずっと咲き溢れている様子」をさいわいとして浮かべることができたとのこと。
言葉の意味を知っていくこと。これからも言葉をつづっていくために、これは重要だと思った。
※表紙はお借りしています。